プラタナスの風(ブログ)
両親への感謝
作業療法センター/野村太紀
小・中学校の時、授業で両親へ感謝の手紙を書いたことを思い出しました。高校以降、そのような機会もなく、今を過ごしているので、この場を借りて両親へ感謝の言葉を伝えられたらと思います。
母は心配性で、小学生の時、私が怪我をすると私より痛そうな顔をして駆け寄り心配してくれました。その姿を見て、(そんな大事じゃないに)と思いつつ、大切にされているだなぁと子供ながらに感じました。
父は、笑顔が多い人でよく笑っている姿を思い出します。基本的に放任主義でなので、私の考えや行動を否定することはありません。相談をするといつも笑って「やってみいや」と言っていました。無責任だなと感じていましたが、今は自分から行動をすることが苦手な私の背中を押してくれていたと思います。
そんな両親のことを話すエピソードとして、私が小学生の時、交通事故にあったことを思い出します。事故後すぐに母が来てくれ、一緒に救急車に乗り「大丈夫やきね」と泣きながら励ましてくれました。病院に搬送され、休んでいると遅れて父も到着。さすがに焦った表情をみせていましたが、私が元気な事を知ると「何も無くて良かったわ」と笑顔で話していました。二人を見て安心したのか、私は大泣きをしてしまいました。
最近は両親と会話をすることは少なくなりました。何となくの気まずさを抱えていましたが、思い切って両親を食事に誘ってみました。二人は驚いた様子でしたが、「行こ行こ!」と喜んでくれました。私は恥ずかしい感情を持ちながらも、喜んでいる姿を見て嬉しく思いました。
久し振りの家族揃っての食事はいつもより美味しく感じ、楽しいひと時でした。食事中、「あの時のこと覚えちゅうか」と私の小さい時に行った動物園や旅行の話、何気ない日常の場面などを両親が笑顔で話していました。よくそんなことを覚えているな?と関心しつつ、改めて大切にされているだなと知るとても良い機会となりました。
それ以降、少しずつ家族間の会話も昔ほどではありませんが増えました。次は、温泉旅行にでも誘ってみようかと考えています。
まだまだ、両親へ直接感謝の言葉を伝えるのは恥ずかしい。その代わり、美味しいご飯や楽しい旅行などに自分から率先して誘っていこうと思います。これからも笑顔で過ごし、たくさんの思い出を一緒に作っていきたいです。
喧嘩をすることもありましたが、本当に大切に見守られたことに感謝しています。これからは迷惑をかけず、二人が安心して過ごせるよう、私も成長していきたいと思います。
アルバム
1階病棟/廣瀬 彩
木々が少しずつ色づき始め、季節の移り変わりを感じさせられるそんなある日。母から、実家の物を断捨離して欲しいと連絡があり帰省する。
実家に帰ると、あちらこちらに物が山積みになっている。必要な物と不必要な物に分けてと頼まれたが、どこから手を付けたらいいのかわからず立ちすくんでいたところ、大きな衣装ケースの中にたくさんのアルバムが詰められているのがふと見えた。そのケースを開けてしまった私は母から与えられた課題である断捨離はそっちのけで、アルバムを手に取り開いてしまう。母も私の隣に座り、「本当に寝ん子やったき、日中は必死になって運動をさせに行ったのに…全く寝んかったー」と言う。よく母と祖母に連れられて公園に行き、裸足で走り回っていたよう。しかし、子どもの体力は無限大で帰宅後もその力を発揮する。母たちを困らせていたやんちゃな子であった。
また、アルバムの所々にメッセージが付けられていた。例えば、「5ヶ月腹ばいができるようになったよ!」や臨月で歩くのがやっとの母の前を2才頃の私が満面の笑みで掛け走る写真に対して「あやにはついていけません」と言ったメッセージなど。私はこんな子どもだったんだと知れたり、くすっと笑ってしまうようなメッセージもあったりとアルバムをめくる手を止められなかった。
今や、簡単にたくさんの思い出をデータとして保管することができる。保管場所も取らない上に、スマホであればどこにいても直ぐに見返すことができるため大変便利ではあるが、実際の厚みと重みのあるアルバムを手に取りホコリを払いながら、少し色褪せたり、引っ付いたりしているページをゆっくりめくることで時の流れを感じられるのもまた味があってよい。実際のアルバムは年月を経て古さを感じさせようとも、その思い出の数々は色褪せることはない。
もし、将来自分の家庭ができた時には、自分の子どもと一緒に笑いながらアルバムをめくることができるように、日常の何気ない小さなしあわせの瞬間をたくさん残していけたらいいなと思えた。くすっと笑えるような言葉やぬくもりで包み込んであげられるような言葉を添えて。
ほっこりとした気分でアルバムを見ていると、1階にいる母から「アルバムばっかり見ずに早く断捨離してよー」と声が聞こえてくる。「はーい」と返事をしつつも、私はアルバムの次のページをめくった。
バスケがしたいです……!!
相談支援室/近藤和貴
私がバスケットボールを始めたのは小学3年生の夏頃でした。そこから、小・中・高・大学と続けましたが社会人になり全くバスケとは無縁の生活を続けています。小学校時代は、下校後友達と毎日遊んだり自宅に招き一緒にゲームをしたり、夏休み中の学校に潜入し蝉取り合戦をしました。まぁ時々勤務の先生にバレて蝉を先生の顔付近に近づかせ驚かしその隙に逃げるというタチの悪い事をしていました(その後全力で追ってくる先生には敵わず怒られました)。
そんな中、定期的に体育館でボールが跳ねる音、バッシュと床の摩擦音、多少やかましい程の声でバスケの練習を頑張る上級生達に圧倒され、練習を外から見入る事が多々ありました。何日か同じ事を続けていると上級生から「一緒にやってみん?」と誘われ、体験で参加してみました。
見学でバスケの魅力に気づかされた私は正式にミニバス(ミニバスケットボールクラブ)に入ることを決めました。練習を重ねるにつれできる技やシュートが打てる距離も長くなりその頃からどっぷりとバスケに没入しました。休日でも友達とバスケのリングがある公園に行って一対一をしたり、友達と遊ぶことができない日は父と公園に行きシュート練習等に付き添ってもらっていました。小5〜6年に2年連続県選抜に選ばれたのは自分の実力が認められたようでとても嬉しかった事を覚えています。それと同時に全国レベルのバスケを知れたのもいいことでした。県選抜の全国大会で、私達の選抜チームではほとんど歯が立たず、私も上手にプレイすることもできず、早々に破れてしまいました。負けてしまった後には、父に無理を言って大会が終了する最後まで残らせてもらい見学していました。同学年なのにプレイスキルや判断の速さに大きな違いがあり大きな収穫になりました。
その後の自身のチーム練でより一層やる気に満ち溢れた私は、他にもう3名自身のチームから選抜に選ばれていた仲間と前以上に練習に励みました。小学6年生時は、負けたくない思いが強く高知県大会で決勝まで駒を進めましたが惜しくも結果は2位。全国大会には出場できませんでした。
最近はバスケも盛り上がりを見せており、男子バスケ日本代表が自力でパリ五輪を掴んだのは48 年ぶりです。更に今回のワールドカップで2勝を上げて、オリンピックの自力出場権を勝ち取ったのも初めてです。
ふと思い出に浸りながら文章を書いていると、書き過ぎていました。中・高・大のバスケの思い出はまた今度の機会に報告しようと思います。思い出しているとバスケ欲が高まってきたので、今度友達と一緒に体育館でも借りて久しぶりにバスケをしに行こうと思います。
橋の上から
医事課/綾 智子
私が瀬戸内しまなみ海道の橋を、ほんの少しの距離ですが、初めて自転車で走ったのは20年位前になります。広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ「瀬戸内しまなみ海道」の愛称で親しまれている「西瀬戸内自転車道」が完成したのは、1999年5月1日。原動機付自転車及び自転車・歩行者専用の道路が整備されている橋としてかなり話題になっていました。
当時、愛媛県松山市に住んでおり、友達と遊んでいる時でした。「しまなみ、自転車で走ってみたくない? 今から、行ってみん?」と友達が言いました。「行ってみたいけど、今治市までどうやって行くの?」と私が聞くと、「ここからずっと自転車」と友達がさらっと言いました。初めは驚きましたが、しまなみ海道を走ってみたい、自転車で松山市から今治市まで行けるなら行ってみたいなと私は思い、そして私達3人の思いが一致して、その日の午後1時頃に、通学用の自転車に乗り松山市を出発しました。
松山市から今治市まで、国道196号線を走りました。左手に穏やかな瀬戸内海を眺めながら、時には休憩して、ひたすら自転車をこぎました。季節は真冬、日が暮れる時間が早く、少し暗くなってきており、私達は少し不安になっていました。かなり長い時間走ったけれど、橋が見えてきません。スマートフォンが無い時代でしたので、今いる場所がどこなのかインターネットで検索することもできません。道路標識だけを頼りに、ただただ自転車をこぎました。そして、「しまなみ海道」という標識が見えた瞬間に、「あと少しだ!」とみんなで叫んで、橋を目指しました。
そして橋のもとにようやくたどり着き、自転車専用道路に入り橋までの坂を上りきりました。そうすると、目の前には今治市と大橋をつなぐ約4kmの大きな来島海峡大橋が見えました。時間があまりなかったため、少しの距離だけ走り、立ち止って橋の上から夕日を見ました。目の前には、いくつもの島があり、その間に潮流が見え、今までに見たことがないとてもきれいな景色でした。疲れたけど、とても楽しかったことを覚えています。ちなみに、帰りは心配した友達のご両親が迎えに来てくれて、車で帰りました。
予想外…
栄養管理室/楠目知加
みなさんは『夢をかなえるゾウ』という本をご存じですか?
私は10年ほど前に職場の友人に勧められて、手に取りました。関西弁の会話形式で進む内容に、どんどん読み進んだ記憶があります。2008年にベストセラーとなり、今では続編も加わって4部作になっています。
さて、内容を簡単に紹介すると、ある日、ダメなサラリーマンの前にクセの強い神様『ガネーシャ』が現れ、偉人たちも行ってきたという課題を順に29個出してゆき、主人公は本当にこんなことで…と疑問を抱きながらこなしていくなかで成長していく…というものです。
ここで『ガネーシャ』って?
いまさらながら、いったいどんな神様なのだろうと思い始めました。この作品では、コテコテの関西弁を操るゾウの顔をした、あんみつ大好き、ヘビースモーカーでクセの強い神様として登場します。
実際には、困難やあらゆる障害を取り除いて福をもたらすとされる、豊穣・智慧・商業の神様で、インドで広く崇敬されており、何かを始める前には必ず礼拝するのだとか。
その姿は、4本の腕をもち太鼓腹の人間の体に、片方の牙が折れたゾウの顔をしています。わたしが見たものは、派手なピンク色をしていました。
そして、なぜゾウの顔を持つのか?
諸説あるうちのひとつの神話によると、ヒンドゥー教で世界の破滅と再生を司る神様であるシヴァの妻・パールヴァティ―が、自分の垢を集めて人形を作り、そこに命を吹き込んで息子としてガネーシャを誕生させました。
パールヴァティはガネーシャに、沐浴の間はだれも入れてはならないといいつけて、見張りをさせます。そこへシヴァが帰ってきますが、ガネーシャはそれが父であるとは知らず、母のいいつけを守ってシヴァを入れませんでした。するとシヴァは激怒し、なんとガネーシャの首を切り落として遠くは投げ捨ててしまいます。
後にガネーシャが自分の子だと知ったシヴァは、投げ捨てた頭を探しにでますが、どうしても見つけられませんでした。そこで、最初に出会ったゾウの首を切り落として持ち帰り、ガネーシャの頭として取り付けて復活させた、というものです。
なんとも予想外…。知らなくてもよかったような、想像もできないお話でした。
ゾウの顔の理由はさておき、まだ読んでいない続編を読んでみようかな。みなさんももし興味があれば手に取ってみてください。